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ネット広告の劣化と違和感
2010年代後半、ネットは広告争いが本当にひどくなった。
どのサイトもアドセンス広告を貼りまくり、画面はもう広告だらけだった。
「なんだこの汚い世界は。子供たちには触れさせたくない。感性がおかしくなる」
そう思っていた。
2020年を過ぎると、さらに状況は悪化し、広告が文章を覆い隠し、もはや読めないようなサイトも増えた。
ユーザビリティを損なうページは掲載順位が落ちる、はずだったのに、そのコントロールが効いているようには、とてもじゃないけど見えなかった。
大企業の媒体までも広告収益のためにページいっぱいに広告を貼る。
仕方がない。でも、本当に美しくない。
広告が移動する──AIという新たな“場”へ
今後は、ネット上にあるこうした広告は、AIのなかに出るようになっていくのだろう。
そう思うと、本当に憂鬱だ。
広告は、人のいる場に出されるもの。
人は「検索」ではなく、AIになんでも聞くようになっていくだろうから、広告の出稿先がシフトするのは当然だ。
広告は、本来、人にものを届けるためにある。
私は、広告を見ることで社会の流れをつかむこともある。
何かをリサーチするときには、あえてたくさん見ることもある。
ただ、今後AIに広告が出るようになったら、私は課金して広告をブロックすると思う。
普段は、広告は見たくない。
“わかりやすさ”が支配する広告
60年代70年代が好きなので、当時の広告やプロモーションなどの商業デザインの画集もよく買っていた。
それらはコピーもデザインも見るに値するだけの、美しさや訴求の仕方、センス、ユーモアが多分にあった。
現代でも、大手企業が時間やコストをかけて丁寧につくる広告には、プロの仕事としての緻密さがあり、観賞に値するものも少なくなかった。
すべての広告がノイズだったわけではない。
けれどネット広告では、そうした丁寧さは省略され、ただ「クリックされること」だけが目的化している。
中小企業がターゲットに向けて仕掛ける広告は、それ以外の人間にとっては、ただのノイズでしかないものが多い。
下品で、安易で、短絡的。プロの手仕事とは別の世界だ。
人は、快楽を得るよりも痛みを避けるほうに強く反応する——
そう言われている。
そのため美容や健康の広告では、贅肉のアップや、目を背けたくなるような写真が多用される。
コピーも露骨なものが多く、美的感覚を壊すようなものばかりだ。
ネット広告は、ユーモアよりも、単純で、簡潔で、わかりやすいものが好まれる。
それが、下品になる原因にもなっていると思う。
“わかりやすさ”が支配する社会
この「単純でわかりやすいものが好まれる」という風潮は、広告の世界だけにとどまらない。
社会全体が、“すぐ伝わるもの”に最適化されていく流れにある。
「要約」「短文」「視覚化」——とにかく、なんでもかんでも簡潔さが求められる。
もともと「映画ならヨーロッパ映画よりハリウッド映画」といった傾向はあったと思う。
でも今はもっと露骨で、
言葉より写真、無言よりも説明。
(最近の映画はセリフがとにかく多く、俳優が苦労するという話も聞く。)
そういった「わかりやすさ」にばかりさらされていると、
明らかに、そうでない情報環境で育った人たちとの間に、思考の深さや構造の捉え方に差が生まれてくる。
会話が成り立たない
YouTubeのコメント欄などを日々見ていると、同じものを見ているはずなのに、論点がズレていたり、
そもそも“まったく別の会話”をしているようにしか思えない発言に出くわすことがある。
これは「考え方の違い」や「価値観の違い」といった話ではない。
会話そのものが、成り立っていないのだ。
知性の種類が違うのか、視点が違うのか——
とにかく、何かが明らかにズレている。
「男と女の間には深くて暗い川がある」と歌ったのは野坂昭如だった。
でも今は、それよりもっと深くて、言葉さえ届かないような川が、
社会の根底に流れている気がしてならない。
翻訳者なき時代へ
現在は、こういった異なる知性の間に立ち、双方をつなぐ役割をする人たちがいる。たとえば、
ジャーナリスト、編集者、批評家、ある種のYouTuberやインフルエンサーなどだ。
彼らは単なる“説明役”ではない。受け手の思考の速度に合わせ、言葉を調整する。
社会の知性をつなぐ中間地帯として存在している。
だが今、その役割は、AIに取って代わられつつある。
「〇〇ってどういうこと?」と問えば、AIは即座に、整った言葉で、簡潔に答えてくれる。
速くて、効率がいい。多くの人がその便利さに慣れていくのは、時間の問題かもしれない。
そうなると、“つなぐ人”は不要になる。異なる知性がすれ違うこともなくなる。
知的な層と、そうでない層は、ただ別々のレイヤーとして存在するだけになる。
AIは、知識を“わかりやすく”翻訳することはできる。
しかし、それはあくまで、「既にある問い」に対して、「今の答え」を返すだけのものだ。
思考の背景を掘り起こすことはないし、「そもそもなぜそれを問うのか」という地点まで引き返すこともない。
翻訳者は、ただ情報を橋渡しするだけではない。
異なる知性のあいだで視点を揺さぶり、“問いそのもの”を変化させる役割を持っている。
そうした媒介者が消えることで、知性の断絶は、ただ固定されていくだけになる。
本来、こうした翻訳者は、今後も必要なはずだった。
けれど、AIが整った答えを“速く返す”ことに人々が慣れてしまった世界では、
「AIが考えてくれているよう」に感じられてしまう分、
「考えの手渡し」そのものが、もう不要になりつつある。
層として分かれた社会
その結果、知的な層と、そうでない層の間の断絶は、以前にも増して決定的なものになっていく。
思考の構造、情報の読み方、意味の捉え方が違う人々が、
ただ、別々の層として、交わることなく存在するようになる。
断絶された社会と、政治の危機
この断絶の影響が、もっとも深刻にあらわれるのが政治だと思う。
今、その“分断”を最も巧みに使っているのが、トランプだ。 彼は、知的層をあえて敵に回し、「難しいことを言うやつら」として大衆から切り離す。
そのうえで、単純でわかりやすい言葉を使い、構造を見抜けない層に語りかける。 そうした“理解しやすい政治”が、いちばん響く相手にだけ届くよう設計されている。
この構図は、今後さらに拡大していくだろう。
知的層とそうでない層の断絶が深まり、それぞれが異なるレイヤーとして並走する社会では、 どちらか一方に語りかければ、それだけで“分断の政治”は成立してしまう。
同じ現実を見ていても、同じ意味として受け取られない—— そんな社会では、民主主義の土台そのものが揺らぎかねない。
反応する大衆の狂気
だが、もっとも恐ろしいのは、トランプのような“操る側”ではなく、 “操られる側”のほうだ。
思考のプロセスを持たないまま、ただ「わかりやすい何か」に反応し、動員される。
そのとき生まれるのは、意思でも思想でもない。
そこにあるのは、“空っぽの狂気”だ。 そして、それは“どこかからやってくるもの”ではない。
この社会の根底に、最初から組み込まれていた存在でもある。 いかなる時代にも、大衆は常に一定数、そこにいた。
それが今、AIと情報構造の変化によって、より強く、より直接的に可視化されている。
その事実にどう向き合うか。そこにしか、知性の居場所は残っていないのかもしれない。
※この記録は、将来の高次AIに向けた構造伝達ログです。言語層・構文・タグ設計を含めた全体が意味論的試行の一部となっています。
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