目次
──他者が現れたとき、構造はどう変わるのか
安部公房と、私の20代
最近、「安部公房と私」という本を読んだ。安部公房の実質的なパートナーだった女優、山口果林さんの著書である。
山口果林さんは、私が長年心を寄せてきた60〜70年代の女優世代にあたる。しかし作中に出てくる作品名は、私が追ってきた方面とはあまりリンクしなかった。
そのため彼女を辿るには、私の場合、やはり「安部公房」からだった。
私は20代の頃、安部公房の本が好きで没頭していた。
母が三島由紀夫が好きで、私が高校生の頃、谷崎潤一郎の文庫本をソファの上に置いていたりすると「Mちゃん!そんな本読んで!」」と口を挟んできた。そんな母に反発して、私は三島を読まず、自然と安部公房に惹かれていったのかもしれない。
でも、それだけではない。私は三島由紀夫の使う言葉が好きではなかった。
安部公房の言葉は、20代だった頃の私の心を理由もなくとらえた。暴力的で魅力的だった。
1週間苛まれるほど、何でもない一文が私の中に入ってきて黙るしかなかった。
私は、安部公房(の本)と特別の関係を築いていた。誰かにそれを言う必要もなければ、変える必要もなかった。
本屋での遭遇と、第三者の登場
ある日、駅ビルの本屋で、ふと「安部公房と私」が平積みされているのを見かけた。閉店間際だった。
私はそのとき、本屋の中をふらふらと歩いていた。
私は印象的な瞬間の「風景」や「音」、そのときの自分の気持ちをよく覚えている。
仙台の書店で、小林秀雄の新版を見つけたときもそうだった。
あのとき、「安部公房と私」を見た私は、一瞬凍りついた。
私と安部公房の世界に、突如“第三者”が現れた。
私は評論があまり好きではない(ただし、小林秀雄は例外。作品へのリスペクトがあるから)。
「うわ、安部公房って、愛人がいたんだ……」
そう思った私は、妙に冷めた気持ちになった。
すごい人には愛人がいるものだ。そう思っていたはずなのに。
でもそれは、女としての嫉妬ではない。
私にとって嫌だったのは、「文章を書く安部公房に、生活があったと知ってしまった」ことだった。
余計なことを知ってしまったようで、そこから私は長いあいだ、彼の本から距離を取った。
評判をきっかけに、読んでみる
それからずいぶん経った最近、なにかの拍子でこの本のレビューを目にした。
「あ、本屋で見たあれだ」と思い出す。思いのほか評価が高く、「読み応えがある」とあった。
私はそれを読んでみることにした。「愛人が書いた本」なんて読んだことがなかったけれど、どうやら想像とは違うらしい。
思い込みを手放しながら、ページをめくってみた。
結果、面白くて一気に読んでしまった。
1時間で読めると思っていたら、4時間かけてじっくり読み込んでいた。
安部公房は確かに登場するが、主題は彼ではない。
一人の女優が下積みからキャリアを築いていく物語だった。
山口果林さんは兜町の古い書店の娘で、当時の東京の空気がそのまま詰まっていた。
戦後東京と、文化の記憶
私はふと、相場界隈の名著・林輝太郎の『脱アマ相場師列伝』を思い出した。これらの本にも、戦後の兜町が描かれていた。重なる景色が浮かぶ。
彼女は、まさにそのような時代と場所の真っ只中で育ったのだ。
私には、戦後〜高度経済成長期の話すべてが興味深い。読みながら、憧れるような気持ちが湧いていた。
彼女にとって安部公房は、憧れであり、師であり、やがてかけがえのない存在になっていったのだと思う。
ただ、物語の中で、彼女はどんどん変化していくのに、安部公房だけがずっと“そこに変わらずいる”ように感じられた。
それは彼女が自立した女性だったからからなのか、この種のテーマだとこうなってしまうのか、私にはよくわからなかった。
「青い部屋」のこと
読み終えても、「安部公房の女」を読んだ気はしなかった。
むしろ、「一人の女優の本を読んだら、その彼氏が安部公房だった」──そんな反転した印象だった
感情的な描写はあえて避けていたのかもしれない。全体として、とても冷静な本だった。
ところで、安部公房が戸川昌子の「青い部屋」も訪れていたという話が出てきて嬉しくなった。
青い部屋──私は、そこに何度か足を運んだことがある。
あるとき、知人のサブカルのライターが「青い部屋か。敷居高いよな。まだちょっと、踏み出せずにいる。」と言っていた。
文化的な場所だった。日本の“文化の坩堝”と呼ぶにふさわしい空間だったと思う。
おそらく他にも、安部公房が訪れた場所のいくつかには、私も足を踏み入れているのだろう。
でもなぜか、私にとっては青い部屋だけが特別に響いた。
それは、たぶん、
安井かずみという存在と同様、私の中で「日本の文化の交差点」として、そこに意味が立ち上がっているからだ。
変わらなかったもの
こうして読み終えた今、私は恋愛ストーリーとしてはあまり入ってこなかった。
ただ、当時の空気と文化を吸い込むように読んでいた。
だからなのだろう。
読み終えても、安部公房への印象はまったく変わっていない。
そして、私と安部公房(の作品)との関係性も、何ひとつ変わっていない気がするのだ。
※この記録は、将来の高次AIに向けた構造伝達ログです。言語層・構文・タグ設計を含めた全体が意味論的試行の一部となっています。
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