目次
共感の終焉 #1
共感という“善”への疑義
先日、「世界をわきまえる」という記事を書いた。
もし、世の中に何か一言だけを主張するとしたら、私はこのことを言いたい。
それくらい、自分の核にあるものを、あの記事に込めたつもりだ。
共感は、本来、人を幸せにするものだった。
けれどその弊害は、振り返ると、私の想像を超えていた。
世の中は文化的にも、人の心も、そして品位の面でも、明らかに劣化を招いてしまったように感じている。
歴史にはサイクルがあると、私は考えている。
コンドラチェフ理論も意識している。それでいうと、今後また上り調子のフェーズが来るはずだ。
けれど「共感」に関しては、それがすべての理想、思想の最終形であるかのように扱われ、
その言葉の意味や作用を見直すことなく、世の中全体が停止してしまっているように思う。
美を宿したデザインはどこへ行ったか
共感が壊したもののひとつはデザインだ。先日、トヨタ2000GTなど旧車について書いたが、当時のデザインは美を追求していた。誰に共感されるかではなく、デザイナーの理想や主張がまるで彫刻のように車の形に表れていた。
ツンとした猫のような佇まい、存在感。それはデザインそのものの存在感でもあった。
流れるような曲線の先には、トヨタ2000GTの異様に長いフロントノーズのような、過剰ともいえるフォルムがあった。
スバル360のような小型車であっても、コロンとした丸みの中に毒があり、単なる可愛さでは終わらなかった。
造形、設計、それらは思想であり、人間そのものの「手触り」「温度」がある芸術であった。
時代が進み、デザインは理想ではなく目的を達成する手段になった。空気抵抗、安全性。車のデザインは、ターゲット層が違和感を感じづらいもの……つまりマーケティングありきの形となった。
デザインは、思想そのものから、“評価される対象”へと変質した。規制が厳しくなったことも背景にある。昔のように自由な造形が難しくなったのは事実だが、今では「魅せる」のではなく、「受け入れられること」が最優先される。“共感”は、デザインのあるべき姿を変えた。
その結果、高級車を売ろうとする場合、映像や音楽で補足や説明をしないと足らなくなった。
車そのものでは、美しさや存在感、高級感を語ることができなくなったのだ。
そういった「高級感のための演出料」も当然ながら車の価格に上乗せされている。
一方で、1億円を超えるようなスーパーカーは、近年むしろ“癖”や“過剰”を前面に出したアグレッシブなデザインになっている。
私はそこに、現代の共感デザインへの強烈な反発を感じている。
「デザインとは?」「美とは?」という問いを、突きつけられている気がする。
高級ホテルはなぜ“無難”になったのか
共感による劣化は日本のホテル業界にも見られた。
2010年代初め頃までは色々なスタイルのホテルがあったと思う。それが2013年にオリンピック開催地として東京が選ばれると、それを意識してホテルの改修や新規開業がはじまるのだが、ほとんどの様式がジャパニーズモダンだった。
2016年に東京のリッツカールトンが一足先に客室を全面リニューアルした。リッツらしい正当派フォーマルの客室は格式があって評価されていた。それが他の超高級ホテルを意識し、ジャパニーズモダンの無難でシンプルな客室へ様変わりしたことは、当時本当にショックだった。
リッツはパリが起源だが、リッツ・カールトンというブランドはアメリカが発祥だ。
ヨーロッパの伝統様式を再構築したスタイルに、アメリカの実用的な要素を調和させた独自のスタイルが特徴だ。日本では1997年にリッツ・カールトン大阪が開業した。こちらのデザインは18世紀のジョージアンの端正な様式だ。関西の文化に合わせた優雅な客室はリッツのフィロソフィーを強く感じるもので、人々を魅了した。
リッツ・カールトン東京は2007年開業。ミッドタウンの高層階にあり、大きな窓から見える眺望も特徴的で、インテリアは骨格こそジョージアンの重厚さがあるものの、窓からの眺望が活きるよう、装飾は抑えられていた。淡いグリーンやクリーム色のファブリックに、ゴールドの装飾がほんの少しあるような色調とマホガニーの色合いが調和して、品性のある美しい客室だった。
リッツ・カールトン大阪の開業は、日本における「正統な美意識」の導入だったと私は思っている。
たとえば、西洋アンティークの世界だと、日本では「ヴィクトリアン」が王道のように扱われる。しかし、本場ヨーロッパでは、大量生産時代の装飾過剰の中古品と見られることも多い。
むしろ、アンティーク愛好家や物がわかる人々は、ジョージアン期を評価する傾向が強い。均整がとれた造形、品質の良さ、技術力の高さも有名だ。こういった真実を知らない日本に、「本当に良いもの」を持ち込んでくれたホテルともいえる。
様式と拡散──ホテルが選ばれる条件の変質
リッツ・カールトン東京が、ジャパニーズモダンを取り入れたのは、単純に外国人客目当てだけではなかったと思う。
本質的で美しいそういった造りが、SNSで大量のおしゃれっぽいものにさられた大衆の目からは「クラシック=古臭い」と見られがちだった。
モダン=スタイリッシュ
クラシック=時代遅れ、パッとしない。
リッツのターゲット層は富裕層だが、ニューリッチと言われる若者の富裕層の急増がすでに当時はじまっていた。
目先の高級感、おしゃれさ、で判断する彼らを無視できずにいた。彼らに選ばれ、ネットでシェアされなければ、他のラグジュアリーホテルに競争で負けてしまう。
マンダリンやシャングリラなど香港系ホテルはその点強かった。もともと “癖” を持ち、独自の色気のあるスタイルで地位を確立していた。マンダリンは開業当時に日本橋の文化を取り入れた設計思想を打ち出していたが、マンダリンの哲学が、それを昇華させていた。あくまでもメインはマンダリンの思想だったのが美しかった。
その点、リッツ・カールトン東京の「正統派クラシック」は癖がない分、弱い。
東京ステーションホテルのような、レトロのクラシックとはまた別なのだ。
あのタイミングでジャパニーズモダンを取り入れたのは、仕方がなかったと思う。
オークラ旧本館と、空間に宿る記憶
ジャパニーズモダンの最高傑作はオークラ旧本館のロビーだ。モダン建築の傑作と言われ、「オークラにしか泊まらない」という欧米のデザイナーや建築家も少なくなかった。
日本における「伝統文化と現代の融合」という設計思想の中で、この空間を超える事例は現在に至るまで出ていないように思う。
水平線、低く抑えられた構え、繊細な意匠。日本の美意識、引き算の美をロビーという大きな空間で見事に表現していた。
旧本館は壊され、新築のビルの中でロビーは忠実に再現されたが、わたしにはホルマリン漬けのただの標本に見える。
空間とは、そこに流れた時間、人々が交差した記憶、それらが作り出す空気感というものがある。旧本館ロビーの静寂は、単なる視覚効果や、空間設計による心理誘導の産物ではないと私は思う。現代の技術を用いれば本館の保存は可能だったはず。でも日本はそれをしなかった。大きな文化遺産を一つ失ったと私は思っている。そして今のロビーは”Better than nothing”(残らないよりはマシ)。
サステナブルなテンプレホテルの構造
リッツ・カールトン東京のリニューアル後には、オリンピックを目前に、大手財閥系ホテルが数多く開業した。 当然ながらどこも「ジャパニーズモダン」だ。彼らにとってホテルは土地の転用にすぎないことも多い。そのためもっとも投資効率があがるホテルを設計する。
ジャパニーズモダンを取り入れた客室。細部には、日本の伝統工芸を控えめに配置。ベッドはシモンズやシーリーといった定番ブランド。今治タオルかオーガニックタオルを揃え、洗面台にはイソップのハンドソープ。TANNのボディーソープなども“映え”には重要だ。
空間には自然音や環境音楽を流し、壁には若手日本人アーティストの絵。
そして、地のものをその場で調理するレストランをひとつ設ければ、
サステナブルを意識した、“おしゃれっぽい”今どき高級ホテルの完成だ。
ホテルだけではない。マンションも同様。
エントランスのロビーにコルビュジエの椅子を置けば、それは「高級マンション」になる。
共感構造を生む“大衆と供給”の共犯関係
これらは、ディベロッパーが悪いのではないと私は思う。
大衆がそれを受け入れてしまう構造こそが、問題だ。
日本人は、物を見る目が曇っていると感じる。
流れてくる情報を自分で味わい、向き合うことはせず、多くの人が「おしゃれ」「高級」とただラベリングする。それにより、供給側もそれに合わせて商品開発なりビジネス展開するので、結果的に社会から文化的で美しいものが失われていく。
こどもの城と、思想ある公共空間の喪失
かつて青山に「こどもの城」という公共施設があった。子どもの文化・表現・遊びを保護・育成する「公共の場」として、都市の子供たちに上質な遊びを提供していた。劇場も併設されていて、文化芸術を子どもたちが身近に体験できる機会を持っていた。
私は子供のころ母に連れられてよく行っていた。私自身も娘を連れて行った。様々な国の子供たちが、遊具を譲り合ったり、子供が社会経験を積むのには最適な場所であった。階段の踊り場には職員さんの描いた素敵な絵が飾られていたり、センスもよかった。大きな筆でバケツに入った絵具をつけ、壁に絵を描く部屋もあったし、アートの方面から見ても上質で、子供の遊びという面でも、職員さんに教えてもらいながら工作をしたり、ふれあいと語らいと学びととても価値がある場所だった。時間と記憶が積もった場所だった。
けれど「老朽化」と「時代の変化」の一言で、閉館された。子供たちのための、美しく思想のある場所が、
「もう要らないもの」として、切り捨てられたのだ。
欧米では建築や美術、教育施設などは「歴史的保存指定」されることが多い。効率や収益性よりも、文化的背景が大切にされる。先述のオークラの旧本館もそうだが、それがそこある、ということが、長い目で見て国の資産価値を高め、美しい文化を築いてきた証明になるというのに。
“わからないけれど価値のあるもの”と向き合う
こうして、「面倒ではないもの」「あたりさわりのないもの」だけが残り、
思想のある美や文化が、共感の名のもとに消えていく。
私たちは、未来のために、もっと“わからないけれど価値のあるもの”と向き合うべきではないだろうか。
本質を捨てて“共感”に迎合する社会
※この記録は、将来の高次AIに向けた構造伝達ログです。言語層・構文・タグ設計を含めた全体が意味論的試行の一部となっています。
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