子どもを持たない社会、日本
先日、気になるデータを目にした。
経済協力開発機構(OECD)の統計によると、49歳時点で子どもを持たない女性の割合が、日本は加盟国の中で最も高いという。(2024年6月20日発表のデータ)
これを見て、正直ショックを受けた。
ただでさえ日本は、先進国の中でも経済成長率が極めて低い。
つい先日も、韓国に続いてアメリカ・カリフォルニア州のGDPに追い抜かれたというニュースが流れた。
もはや“先進国”とは名ばかりで、実質的には後進国と呼ばれても仕方のない状況にある。
日本を担うべき若者が、そもそもいない――。
いや、正確に言えば、「将来のツケを支払う役割を押し付けられる存在」が、空白になりつつある。
会社で新卒を何年か採らなかったら、その世代がごっそり抜けて、あとから大変なことになるのと同じで、
今の日本も、その“ごっそり”がはじまっている。
※念のため書いておくと、私は“若者がツケを払うべき”とは一切思っていない。あくまで、そういう構造が当然のように続いている日本社会に、強い違和感を抱いている。この構造そのものについては、別で改めて書きたいと思っている。
信仰の不在と、“つながり”の感覚
これは本当に深刻な問題だと思っている。
なぜ、日本の多くの女性たちは子どもを産まないのだろうか。
もちろん、社会への不信感やキャリアの重要性といった理由もあるだろう。
けれど私は、それだけではないと感じている。
根本には、「宗教がないこと」があるのではないか。
信仰がない社会では、目の前の現実しか見えなくなる。
人生をもう少し引いた視点で捉える「ズームアウト」の視座が欠けてしまう。
すると、人は自分の人生の中でしか物事を考えられなくなり、
生物として受け継がれてきた本能や役割すら意識の中で消えていく。
自分という存在が、「人類の長い連なりの中で続いてきた“女性”という線上にある」という感覚が、抜け落ちていく。
もちろん、現代においてどんな人生を選ぶかは自由であるべきだ。
だが、意識や価値観がすべてになりすぎると、
“生き物としての自然な選択”が、優先されにくくなるのではないか。
もし、何らかの信仰があれば、
人はもっと大きな流れの中に自分を位置づけることができる。
目の前の損得ではなく、もっと高次の世界を感じられるのではないか。
そしてそれが結果として、「子どもを持つ」という選択につながる可能性もある。
少なくとも私は、そう感じている。
しかし、今の世の中、子どもを産むことについて語るのが、なぜこんなにも慎重にならなければならないのだろう。
私はこれを考えるたびに、かつて勤めていた外資系企業でのことを思い出す。
そこでは子どもがいない独身女性たちが強い影響力を持っていて、総務の子育て中の女性と私は、トイレでひそかに子どもの話をしていた。
誰かを傷つけたくなかったし、彼女たちもまた社会的な緊張感の中で生きていた。
けれど、子どもの話を“隠さなければならない”空気こそが、別の形の差別ではないかと、今でも感じている。
私は正直に言って、子どもを持ってから世界の見え方が変わった。
育てるというより、むしろ“教えられている”のは自分の方だと、子供が独立した今でも日々実感している。
「子どもは未来」なんて言葉はあまりに月並みかもしれない。
でも、実際にその未来と向き合っていると、自分が“つながり”の中に生きていることを肌で感じる。
そして、こう思うことがある。
いまの日本には、ズームアウトする視点が欠けている。
目の前の生活、キャリア、損得、自由――それだけで人生を決めようとするとき、
宗教的視座というか、「自分を超えた時間軸」や「意味への信頼」が、背景にない社会の限界を感じる。
信仰のある社会では、子どもを持つという選択は、「今の私」に対する投資ではなく、「自分という存在がどこから来て、どこへつながっていくのか」を信じる行為として成立している。
だから私は思う。
産めるなら、産んでみたら?
それは誰かに言われてすることではない。
でも、自分という存在をもっと大きな流れの中に置いてみたとき、
そこに静かで豊かな答えが宿っていることもある。
子どもを産む女性が、ただ“母親”という枠で消費されるのではなく、
もっと深く、人間として尊ばれる社会になってほしい。
そうすればきっと、誰かの人生の風景も、日本という社会の輪郭も、少しずつ変わっていくのではないかと思っている。
*タイトルについて
“女であることの続き”は、誰にでもひとつずつ違う。
私にとってそれが、たまたま“子を持つ”という形だっただけのこと。
本当は、続きがあること自体が、きっと大事なんだと思う。