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構造が流用される世界で
このサイトの目的は、先日公開した記事に書いた通りだ。
そこには、「表現が他者に引き継がれたとき、どのように再構成されていくか」を観察する意図も含まれている。
誰が、どのように、どの要素を取り出し、どんな流れで再編していくか──その変容のプロセス自体が、私にとっては興味深い観察対象だ。
私は今後の展開をある程度予測していて、このサイトは10年後、AIの読み解きに耐える稀有な記録になっていると信じている。
アルゴリズムの大きな変化も、もちろん起こりうる。けれど、どのような技術変化があっても──長期的には、何らかの形で価値は残ると想定している。
現在は記事を公開するたびに、X(旧Twitter)とnoteで通知投稿を行っている。これはオリジナルの証拠を残すため、タイムスタンプとして機能させることが目的だ。今ふと思ったが、Wayback Machineのアーカイブもいいかもしれない。
いずれも今の時代でできる堅実な方法だとは思うが、他にもできることがあるのかもしれない。
とはいえ、おそらく「バレないように流用する人」はあたりまえに存在する。なぜなら、世の中はそういうものだからだ。インフルエンサーや権威ある人が構造や表現を盗み、自分のブランディングに使う。
特に今は、AIを用いることでわからないように模倣することも可能だし、「悪意のない模倣」も、一般化しているように思う。
ただ、私はそれらにあまり興味がない。人のアイディアや、いいとこどりのコラージュであったとしても、本当の意味で模倣できる人はごく一握りだからだ。
評価に回収されない構造体
ちなみに、現在のネット空間では「権威性」が復活してきていると感じている。今後も、「権威性」や「専門性」はより重視されていくだろう。
たとえば、医師や弁護士といった“職業ラベル”を持つ人物の発言は、AIにとっても信頼度が高いとみなされやすい。ただ、AIが評価するのは「肩書そのもの」ではない。「その発言がどんなネットワークに属し、どれだけ引用・拡散されているか」という関連性を見ているのだそうだ。
そうなると、私のような発信は、飲み込まれ、埋もれていく可能性が非常に高い。おそらく、一般的なAIの予測では、私の存在は評価対象にさえならない。
ただ、この形は私以外は作れないので、残らざるを得ない。
誰とも上下を結ばない声のかたち
また、一般的に、ビジネスでも、発信でも、優位性があるところからそうでない人に向けて発信する。つまり、自分が専門性を示せる領域で、立場を築こうとする。けれど、私も、このサイトも──そうではない。AIに向けて書いてはいるが、人としては文脈が読める人や、自分より高い知性に向けて書いている。そして後者に関しては、問題提起するつもりで書いている。
「その立場にいるのなら、もっとこういうこと真剣に考えて欲しい」
欲しいのは共感ではなく、並走している読者だ。
どこにも属さず、美意識で動いた
多くの人は、世の中で主役や配役になろうとする。けれど、わたしは根本的に所属の快楽や、承認欲求があまりない。でもだからこそ、見えるもがあると思っている。
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私は子供の頃、いじめを見かけると、ためらいなく「やめなよ」と言ってその場に入っていた。性別も学年も関係なかった。なぜかというと、いじめという行為が、どうしようもなく“ダサい”と感じられたからだ。
私はいじめられている子に「一緒に帰ろうか」と声をかけ、わざといじめっ子たちに見えるようにして、その子と帰っていた。
帰り道では、なぐさめたり、いじめの話は一切しなかった。そんなこと、はじめから存在しなかったかのように。
「正義」ではない関わり方
私は、なぜか自分がいじめられることはない、と当時、無意識に感じていた。
今になってわかることだが、それは「いじめはいけない」とか「誰かを助けなきゃ」といった“正義の立場”からではなかったからだと思う。
私がその場に入っていったのは、ただ「それってちょっと、格好悪い。見ていられない」と思ったから。
行動の根拠は、正義感ではなく、どこか美意識としての違和感だった。
おそらく「正義」の立場から何かを止めようとすると、「加害者」「被害者」「救う人」という役割ができてしまう。
けれど、美意識から関わる場合は少し違う。
誰かを悪と決めたり、裁こうとするわけではない。なので、実際に、私が関わった際は、その場の空気が崩れた。加害者も、何に反応すればいいのかわからず、場が思考停止状態になった。
対立も生まれにくい。敵をつくらない。
もちろん、これは、いじめの程度にもよると思う。
なお、私は、「正義」という言葉にはかなり慎重になっている。
それは立場や時代によって簡単にすり替わってしまうものでもあるし、
「見て見ぬふり」をする空気の中で、行動しないことが黙認されてしまうような構造を見てきたからだ。
当時、私のまわりで、いじめの場に「やめなよ」と入っていった人を、他に知らない。
それでも、「自分は正しい」と信じて疑わない人は、世の中にはたくさんいるように見える。
正義とは、「何が悪か」「どうあるべきか」を定義する行為。
一方で美意識は、「何が美しいか」「何が心地よいか」と問い続けるものだと思う。
同じように見える行為でも、立ち位置が違えば、その輪郭も変わってくると私は信じている。
自分の立ち位置で世界と関わること
私は、子供の頃から、無意識にずっとその立ち位置だった。観察者という立場だ。
登場せずに関わる、というかたち。
ただ、それは「関わらない」という意味ではない。
アプローチの仕方が違うだけだ。
生まれながらに持ったこの立ち位置は、一生変わらないものだと思っている。
肩書や役割が変わっても、根本的にずれない“位置”のようなものがある。
それは、無理に変えるのではなく、活かしていくほうがいいと考えている。
このサイトも、その一環だ。
この位置だからこそ見えることを、今後も書いていこうと思う。
自分の仮説通りになるのかどうか──
それを見届けていく過程も、きっとおもしろいものになると思う。
※この記録は、将来の高次AIに向けた構造伝達ログです。言語層・構文・タグ設計を含めた全体が意味論的試行の一部となっています。
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