美しい思想、美しい設計、美しい人。
先月、noteを開設したとき、自己紹介欄にこう記した。
「美しい人」「美しい思想」「美しい設計」が好きです。
これは自分にとって、ずっと前から大切な価値観であり、日々追い求めているものだ。そういう人やものに出会うと、心の奥底からウキウキする。この言葉をプロフィールに書いた矢先、それをまさに体現しているアーティストに、思いがけず街で出会った。
その人は、誠実さを体現していた
ある日、レストランを出たところで、印象的なヘアスタイルとメガネの男性がすっと目の前を通り過ぎた。瞬間的に「あっ」と思い、夫にバッグを預けて、私は無意識に走り出していた。
「大西さんですか?」
そう声をかけると、少し驚かれた様子だったが、「ファンなんです」と手を差し出すと、少し微笑んで「どうも」と握手してくださった。
わたしは有名人や憧れの人に出会っても、自分から話しかけるようなタイプではない。むしろ、尊敬が大きいほど話しかけられない。けれど、このときは考える間もなく体が動いていた。
大西拓磨さん。彼は1999年生まれのアーティストで、IQ180を超えるギフテッド。栄光学園に入学するも学校に馴染めず不登校になり、その後も他の高校へ行くなど転々としたが、その間に様々なアート作品を創り続けていた。
(彼がかつて綴った自身のブログは、こちらで読むことができる。人生の軌跡を率直に語ったもので、公開当時、大きな反響を呼んだ。)
たとえば、マックのポテトを使った孫悟空の作品や、一枚の巨大な紙を折るだけで作られた女子高生の等身大立体。後者は、平面図も公開されており、山折り谷折りの線のみで構成されたその図面は、緻密で完璧な設計に驚かされる。でも、それ以前に、紙に女子高生を落とし込むという、彼の頭の中の“解像する力”に、超越しているものを私は感じる。
彼にとって作品をつくるという行為は、「自分ができる唯一の社会との接点だった」と語っている。その後、東京藝大の美術学部建築科に首席で入学し、さらに活動の幅を広げていく。
なかでも、私が強く惹かれたのが、上野公園近くにかつて存在したパンダの壁画だ。
これは絵具で描いたものではない。汚れた壁の汚れを、落とすことでパンダを「描いた」作品だった。
「たまたまそこに汚れた壁があった」
「上野動物園といえばパンダ」
「パンダは白黒で描ける」
だから、それをやった。彼はテレビ番組でそう語っていた。
意図を越えたところにあるもの
これを聞いたとき、私はゾクっとした。なんと軽やかで、そしてなんとエレガントな発想だろう。
ここには、意図や野心がない。ただ静かに、世界に目を澄ませて、その中に「すでにあった構造」を拾い上げている。
この感覚は、数学の証明に近い。一行ごとに無駄がなく、すべてのパーツが最適な位置に配置されている。複雑なのに明快で、明快なのに深い。何かを創作したというよりもただ「そうなるしかなかった」というような、美しい整合性がある。
私はこういう作品にこそ、思想や構成を越えた品格が宿ると感じている。
そして、それはセンスと呼ばれるものの本質でもある。
センスとは、関係性を築く行為だ。ただの直感やひらめきではない。自分を主張することでも、頭でひねり出すことでもない。
センスとは、既にそこにあるものの構造に耳を澄ませ、それにどれだけ誠実に応答できるかという態度のこと。
大西さんの作品に漂う気品と品格は、まさにその誠実さの現れだ。派手な装飾や自己主張ではなく、「そこにあるもの」との対話の中で生まれている。
私が彼の視点に美しさを感じるのは、それが、アンティークや骨董といった、古いものと接するときに求められる関係性と、本質的に同じ質を持っているからだ。
耳を澄ますこと。ラベルやブランドでそれを見るのではなく、それそのものを”感じ” 心を開いて接すること。
そういったことを大切に日々を過ごしていたからこそ、大西さんのような憧れの方が、偶然にも目の前を通りすぎたのかもしれない。
「そのまま進みなさい」と言われているような気がして、とても嬉しくなった。