この仕様で、言葉はどこに向かうのか

紙の断片のように光が砕けた影。消費される情報を暗示する抽象的な光景。 Essay

2022年のある日。お風呂上がりにスマホで思いつくままに文章を打った。それが後に、とある上場企業のメディアに転載されることになる。もともと有料メルマガ用に書いた記事だった。

某有料メルマガの発行審査が厳しいと聞き、それが本当かどうか試してみたくなった。適当に書いて申請したら、あっさり審査に通過し、そのままメルマガの発行者となった。なったのはいいが、読者ゼロでも配信はしなければならず、構想もないまま、数記事を登録した。

後日、そのうちのひとつについて、「おもしろいので使わせてください」と運営側から転載許諾の連絡が届き、私は了承した。

驚いたのはそのあとだ。大手メディアであるにもかかわらず、私の駄文が、句読点も語尾も一切手を加えられず、そのまま掲載されたのだ。

※掲載記事:
[アボカドはなぜ日本で流行したのか。その仕掛け人“エンジェル”とは誰のこと?]

こういうものは普通、多少は手を入れて、自社のトーンに寄せるのではないか?ところが、スマホで打ったまま、読み返しすらしなかった文章が、本当にそのまま世に出ていった。

メディアの軽さという現実

そのとき、痛烈に感じた。これが、今の“メディアの軽さ”なのだと。

今のメディアは本当に”読み捨て”なのだ。(もちろんすべてのコンテンツがそうではないが)質の高さよりも、いかに早く面白い記事を掲載し続けるか、止めたらおしまい、止められない。一瞬気を引けばよく、持続性なんて関係ない。軽くて暇つぶしになり、テンポよく読み進められればそれで良い。そうした情報環境が現代の空気を作っている。特に日本人は重いものは好まない。

「残る」情報と、ひとりの書き手の意地

私は、そんな情報消費とはまったく異なる世界にいた。


2020年以前、私はラグジュアリーホテルに特化した個人メディアを立ち上げ、一人で運営していた。コンテンツのユニークさと質で勝負していた。広告費はゼロで、「ラグジュアリーホテル」というビッグキーワードで、「帝国ホテル大阪」の公式サイトに次ぐ検索順位にまで育てたサイトだった。

最終的にそのメディアは、事業会社に売却している。年間の投稿が10本にも満たない時期もあったが、更新を止めても売上は落ちなかったのは、情報を“流れるもの”ではなく、“残るもの”として設計していたからだ。

一瞬で消費される快楽と、微かな違和感

だからこそ、メルマガ掲載の件には、ある種の逆説的な可笑しさがあった。ただの書きっぱなしが、そのまま晒され、瞬間的に消費されていく。「存在の耐えられない軽さ」──そんな言葉が浮かぶような、マゾヒスティックな快楽さえあった。同時に、軽さとスピードによって咀嚼され続ける世界への、居心地の悪さと違和感も抱えていた。

そんななか、今年たまたま出会った記事が、深く心に残った。


人間のはく製をつくらない理由。はく製職人が語る死生観


構成も文体も美しく、言葉への敬意と、職人の死生観が丁寧に伝わってくる。
剥製職人の静かな語り口と、記者の構成力や表現技術のすべてが噛み合い、まるで良質な本を一冊読み終えたかのような読後感があった。

Webメディアでこんなに立派なものが作れることに、心から驚いた。圧倒的な強さで心に残る記事は、確かに存在するのだ。

沈む言葉と、未来のこと

わたしは昔から、ネット上の他人のコンテンツをほとんど読まない。なぜなら、あまり面白くないからだ。

でも、この記事のようなものが確かにあるのだとすれば、私は数々の良質なコンテンツに触れる機会を、自ら失ってきたのかもしれない。それはとても悲しいことだ。

今、インターネット上には、果たしてどれだけの“リアルな人間”がいるのだろうか。
おそらく、もうほとんどがbotだ。

AIに食わせるために書く、のならば、何に価値がおかれるのだろうか。常日頃それを考えているが、未だその答えはわからない。

ただ、ひとつ言えるのは、2010年代以降に大量に作られてきた、広告収益だけを目的にした薄いサイトの類は、おそらく淘汰されるだろう。(“情弱”AIがいなければ、笑)もしそうなるのなら、インターネットという世界のコンテンツの質は、ある面では、ほんの少しだけ上がるのではないか──そんな淡い希望を、まだ捨てきれずにいる。





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