目次
※一部、意図的に抽象的な表現を含みます。
Emmanuel Pahud(エマニュエル・パユ)と室内楽
空間の構造(structure)と響きの余白(resonance)
先日の記事でも触れたが、エマニュエル・パユ(Emmanuel Pahud)のコンサートに行ってきた。今回は、その内容について書いてみたい。
7月7日は、パユが首席フルート奏者を務めるベルリン・フィルのメンバーとの室内楽公演だった。この編成での来日は、実に9年ぶりとなる。
会場は、浜離宮朝日ホール。室内楽のために設計された、600席弱の小さなホールだ。
同じプログラムによるドイツ公演の映像も見たのだが、そちらはかなり大きな会場だった。音が広がりすぎて、室内楽特有の親密さにはやや欠けていたように感じた。
その点、今回の日本公演のほうが、音に潤いがあり、輪郭までしっかり味わえたのではないかと、勝手ながら思っている。
演目は、モーツァルトの《フルート四重奏曲》と《四重奏曲「アメリカ」》。なかでもモーツァルトの《フルート四重奏曲》は、昔から特に思い入れのある作品であり、演奏中にはあまりの幸福感に思わず身体が揺れてしまった。隣の方も揺れていて、私もそれにつられていたのかもしれない。加えて、パユの演奏する姿を間近で見ることができたこともあり、この上なく贅沢で、まるで夢のような時間だった。
今もこの素敵な時間に戻りたいと思いながら書いている。
パユのフルートをモーツァルトが聴いたら
パユのフルートは、わたしにとって “音” というより、放物線を描く “光” のようだ。
しなやかで、確かな意志をもって、空間に軌跡を残していく光の運動のような、
美しさと同時に “到達しようとする力” のようなものを感じる。
演奏されたモーツァルトの《フルート四重奏曲》は、彼が商業作曲家として書いた作品だ。
当時のフルートはまだ未完成で、モーツァルトはこの楽器をあまり好まなかったとも言われている。この《フルート四重奏曲》も 「こんなもんかな」と作ったのではないかと想像する。しかし、パユのフルートをモーツァルトが聞いたとしたら、どんな曲を書いただろうか……と、つい考えてしまうのだ。
実験的な作品とパユの超絶技巧
合間に演奏された、ヴィラ=ロボスの《アソビオ・ア・ジャート(ジェット・ホイッスル)》も非常に良かった。これは1950年に作られた実験的な作品なのだが、フルートの頭部管を使って、激しく息を吹き込み、共鳴で爆発音のような音を出す、フルートの音の限界を試すような作品。
用いる楽器も、フルートとチェロ、高と低、という珍しい組み合わせ。ヴィラ=ロボスの色ともいえる、土着的なメロディに、タイトルの通りの鋭い金属音のような表現が乗るのだが、
間近で超絶技巧を耳と目で見せつけられた感じ。思わず身を乗り出してしまった。
エマニュエル・パユ ソロコンサートの概要
水曜日のソロ公演は、これまで体験したことのないような時間だった。
演目は、バッハと近・現代の作品による無伴奏フルートのみの構成。休憩を挟まず、約1時間20分にわたって演奏された。
会場は、初台のオペラシティにある「タケミツ メモリアル ホール」。
パユが深い敬意を示している作曲家・武満徹の名を冠した空間だ。ホールの静謐な空気と相まって、音楽に対する集中が極限まで高められていた。
舞台上にはただパユひとり。
それでも空間は満たされ、むしろ聴く側の意識のほうが研ぎ澄まされていくような、不思議な緊張感があった。
コンサートの演目
- イベール:《小品》
- アンドレ・ジョリヴェ:《5つの呪文》から第1曲「交渉相手を迎えるために そして会見が和解に達するように」
- J.S.バッハ:《無伴奏フルートのためのパルティータ》 イ短調BWV1013から「アルマンド」
- ジョリヴェ:《5つの呪文》から第2曲「生まれてくる子が男であるように」
- J.S.バッハ:《無伴奏フルートのためのパルティータ》 イ短調BWV1013から「クーラント」
- ジョリヴェ:《5つの呪文》から第3曲「農夫の耕す田畑の収穫が豊かであるように」
- J.S.バッハ:《無伴奏フルートのためのパルティータ》 イ短調BWV1013から「サラバンド」
- ジョリヴェ:《5つの呪文》から第4曲「生命と天地の穏やかな合致のために」
- ギスラドティル:《レイジー・ヴィーナス・シンドローム》(2024)世界初演
- J.S.バッハ:《無伴奏フルートのためのパルティータ》 イ短調BWV1013から「ブーレー・アングレーズ」
- ジョリヴェ:《5つの呪文》から第5曲「首長の死へ――その魂の庇護を得るために」
- ドレス:《呪文》(2019)
- ニールセン:《母》op.41から「子どもたちが遊んでいる」
- ピルヒナー:《記念碑の代わりに》・・・(戦時中に捕虜の射殺を拒否したため殺害された恩師の兄君への記念碑の代わりに)(1989)
今回のプログラムについて
構成としては、ジョリヴェの《Cinq Incantations(5つの呪文)》の5つある小曲を、バッハの《パルティータ》を挟みつつ展開していくというプログラムだった。
演目を見てもわかるが、“呪文=精神性・人間の周期(誕生から死)” や、“戦争という暴力と記憶の継承” など、テーマとしてはかなり重い。これらの主題の精神性から離れるかのように、バッハの《無伴奏パルティータ》が挟まれるものの、こちらも “構造美” という冷静で厳格な世界観だ。いわゆるフルートらしいやわらかい音色と美しい旋律を味わうプログラムではない。
なによりも、これらの作品は、フルートの技巧を駆使した難易度の高い作品ばかりだ。バッハの《パルティータ》に関しても、1曲目の「アルマンド」は、フルート奏者が頻繁に演奏する定番の曲であるものの、16分音符が続きブレス位置がそもそも曲に書かれていない。そのため、本来は弦楽器や鍵盤楽器のために書かれたのでは、など諸説ある作品。つまり、超絶技巧の現代曲の合間に挟まれるこれらの曲も、フルート奏者にとっては体力を消耗する作品だ。
現代音楽の形と、世界最高峰の技術
かつて、これほど緊張したコンサートがあっただろうか。
1,600席あるオペラシティのホール。私が座っていた1階席はほぼ満席だったが、パユの小さなブレスさえ聞こえるほど、場内は静まり返っていた。
“死” や “再生”、“祈り” といったテーマをはらんだ音楽に、私はどこか違う世界へ連れて行かれたような気がしていた。
バッハや一部の作品を除き、聴いたことのない曲ばかりだったが、その中にはパユのために書かれた新作も含まれていた。
今、現代音楽の最前線では、こういう表現が生まれているのか――と、驚きと発見の連続だった。なかでも “表現の多様さ” には、本当に息を呑む思いがあった。
月曜の室内楽も素晴らしかったが、このソロ公演はまったく別種の体験だった。
フルートが “耐えている” ようにさえ思えるような、極限まで息を吹き込む奏法。あえてかすれさせるような音の処理。
「どうやって吹いているのだろう」と思わずにはいられない、未知の音――
息とも、声とも、音色とも違う、“管と空気の振動” そのもののような響き。
あるいは、キーの打音(パコパコと鳴るキーノイズ)だけをわざと際立たせた曲もあった。
私のフルート経験と耳の座標
わたしは小学生の頃に本格的にフルートを習っていた。先生から「筋がよいのでその道を目指したほうがいい」と両親に話があった。しかし、私は、練習が厳しすぎて、フルートが大嫌いだった。結局、辞めてしまった。
しかし、その世界と音に、私は知らないうちに魅了されていたのだ。大人になってもずっと聴き続けている。ただし、単純に音楽として楽しむというより、自分が吹いていたころの感覚の延長線上でどうしても聴いてしまう。
それゆえ、私の視点は「聴き手」ではなく、かつて演奏していた者としての「吹く側」の感覚に基づいたものだ。
音の臨界点
もともとパユの演奏はppp (pianississimo) が神がかっている。その扱いが異次元なのだ。音は小さいのに細くはない。まだ聞こえる、まだ聞こえる、まだ消えない…、まだだ、まだだ…
髪の毛にふっと触れる空気程度のものを、パユは表現しきるのだ。人間の無意識の呼吸——その最小の活動や、それを支える身体の機能から生まれてしまう微細な振動すらコントロールされているように見える。
ただでさえ、あの肺はどうなっているのかと、本気で考えてしまうほどの肺活量と持久力。
そして、そこに加わる超絶技巧。パユは……本当に人間なのか?と思ってしまうのだ。
“間”という世界
二つ目に私がとらわれたのは、パユの音の “間(ま)” だった。
その “間” が、とにかく美しかった。
近年の私は、音楽とは音そのものよりも “間” にこそ本質があるのではないか、という仮説をもとに音を聴くことが多い。(これは、昔、imoutoidが教えてくれたことでもある。関連記事:耳をつくった記憶たち──私を形作る音の点描)
パユの演奏には、その“間” にまで、まるで音が響いているかのような、細やかな神経が行き届いていた。
私にはその “間” が独特に思えたし、まさにそこに囚われてしまっていた。そしてその “間” すら自在に操りながら、パユは聴く者すべてを、自分の世界へと引き込んでいった。
人の声に近い楽器
フルートは人の声に最も近い楽器と言われる。
(他の管楽器でもそう表現されることがあり、どれが本当にそうなのかについては、議論もある。)
だが、こうして多くの楽器で「人の声に近い」と言われることからも、それが最上の誉め言葉であることがわかる。
わたしは、自分がフルートをやっていたからかもしれないが……やはり、フルートが最も人の声に近いのではと感じている。
人の声の代弁をしているような、歌うときには、軽やかに。人生を謳歌するかのように、うたう。
そして、悲しみや恐怖に触れたときには、その哀しみや不気味さを、むしろ増幅させてしまう。
だからこそ、フルートは魅惑的で、人を惹きつけてやまないのだ。
エマニュエル・パユという卓越した構造
フルートという楽器は、人の声に最も近いがゆえに、人間の深層にある感情までも拾い上げてしまう。ときにその音色は、美しさと隣り合わせの、得体の知れない恐ろしさを帯びる。
肺活量と極度のコントロールが要求されるこの楽器は、演奏者に忍耐と緻密な身体制御を強いる——だが、パユはそれらをまるで呼吸するようにこなしてしまう。
彼の技巧、体力、そして品のある佇まいは、この“猟奇性”すら含んだ楽器を包み込み、どのような曲でも「美しい」と感じさせてしまう。
フルートという複雑な構造を、あくまで音楽として、ひとつの優雅な現象に還元してしまうパユ。私はただ、驚きと敬意をもって、その音に息を呑むしかなかった。
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